- ヤンゴン素描 No.37 パズンダウン
駅の東には自家用車族を想定してニュータウンが造られたが、西はデルタ地質の飛び地で水はけがわるく、スラム化した。長い間「町はずれ」として冷遇されていた精米所通りとスラムも、対岸の宅地化とともに商業都市として栄えて来た。手漕ぎの渡し舟が大活躍している。 - No.36 オカラパ 西にスラム、東にニュータウン
駅の東には自家用車族を想定してニュータウンが造られたが、西はデルタ地質の飛び地で水はけがわるく、スラム化した。 - No.35 大伴家持らが挿頭かざした季節の植物
ミャンマーのパダウのように、季節の花や葉を頭にかざす習慣は、日本にもあった。萬葉集の例を季節順に紹介。 - No.34 ミンガラードン・ゼイ駅
鉄道移築で駅は市場から遠くなった。田んぼを挟んだ丘に上の市場では軍・警察関連の装備品が売られている。内戦に備えられた膨大な数の品々。 - No.33 ミンガラードン駅
環状線の北東隅にあるこの駅は、かつて兵営に隣接する戦略駅だった。
ここで夜を明かす始発列車があるのはその名残りだろう。 - No.32 インド西海岸のティボー宮
ラトナギリの丘の上に建つ宮殿の気品あるデザインに、ビルマ王朝最後の王ティボーの気骨を見る思いがする。 - No.31 雲南出土、七牛貯貝器
東京国立博物館(上野)の東洋館では、上海博物館との「競演」を開催している。 上海から借り出し品の一つに、中国漢代の「七牛貯貝器(しちぎゅうちょばいき)」がある。その「牛」というのが、どうやらミャンマーの北部山地にも生息する野牛「ガウル」のようなので、紹介する。 - No.30 アウンサン町 縫製工場と結 病院
植民地時代はシングーSin Ngu 駅と呼ばれ、西に軍用飛行場があったが、現ミンガラードンに移された。駅のすぐ西は塀で目隠しされている。。。 - No.29 廃車の山だけの不愛想な駅
YCDC 地図帳では Phaw Kan とつづられている。「軽の池」といったような意味の地名らしい、、、。
- No.28 ユワーマ 泥の,竹の家
インセインのすぐ北の駅はユワーマである。ユワーYwa は「村」、マ ma は「本」の意。 あわせて「ユワーマ」は「元村・本郷」などと訳すことができる、、、
- No.27 タマイン ミョーティッ
プラスチック廃品が線路わきに干してある駅のそばに、工科大学やFAOなどが点在。抗毒素生産の規格に満たない小型の毒蛇の棲みついているという噂も あるが 。。。 - No.26 タマイン ミョーティッ
植民地経営の命綱である鉄道を原住民の暴動から守るため、イギリスは郊外の住宅地に終 着駅を設けた。 - No.25 タマイン ミョーティッ
駅名の最後につく Thit(ティッ)は「新しい」を意味する接尾辞。「ミョー」は町なので、 駅名「タマイン・ミョーティッ」は「タマイン新町」となる。 - No.24 オッチン 元軍用駅近くにはびこる結核
駅名表示では植民地時代のOkkingを踏襲しているが、発音は「オッチン」。YCDC地図帳ではOakkyinと綴られている。駅の向かいは鉄工所や自動車修理の町工場がならび、トンカントンカンと音がしている・・・。 - No.23 タマイン 市場に占拠されたプラットホーム
ヤンゴン中央駅から時計回りに 13 番目のタマイン駅は、忙しく賑やかな駅だ。駅舎やホー ムは隣接する公設市場の延長となり、商品と売り子であふれ返っている。 - No.22 ハンターワディー 英国田園風チャペルとラーマ寺
列車でチミンダイン駅から北へ向かうとほどなく、左側車窓にひろく展開していた線路が 徐々に近寄り、かわりに輾轍の管が増えてゆく。 - No.21 ティリミャイン 町境を越えるガーリー
ティリミャインはヤンゴン中央駅から北西(左回り、外回り)へ 11 番目の駅で、通勤時に は工員などの乗り降りでにぎわうが、日中はひっそりとしている。 - No.20 シャン通り ポニーをめぐる人種交流
この寂れた駅は運動場跡地で、かつてカーキ色の英国軍人とインド人従者が群れ、近くにはシャン族によるポロ用ポニーの市があった。 - No.19 空軍跡地のさびれた駅の近くにあるのは、「エイズ病院」と、多民族的共同墓地
「ミンガラードン国際飛行場の北東の角にあるこのひっそりとした駅は、かつてBurma Air Force と呼ばれていた。滑走路が拡張される以前のことである。現在、駅の西には滑走路があり、法(のり)面の手前に道が一本通っている。東側は・・・。 - No.18 名前負けの「波(パ)羅(ラ)蜜(ミ)」駅
「パラミ」とは、『般若心経』の冒頭にでてくる「波羅蜜多」のパーリ音で、「完全なる行」をさす。この立派な名前はもともと、駅の上を東西に走る道路につけられたのであって、そのおこぼれにあずかった橋の下のパラミ駅は、見るからに貧相だ。 - No.17 帝釈天とマングローブ姫の子、オカラパ王の物語
ヤンゴン中央駅の北11キロのところに、タダガレーの駅がある。1928-9年測量の地図にも明記された古い駅で、昭和17年(1942年)版『ビルマ地名要覧』「ラングーン(県)」の項によれば、当時人口526人の村だった。 - No.16 バウトー駅とチャイッカサンの四天王寺
ヤンゴン中央駅から北東へ5つ目のバウトー駅は、低地のホームと、丘の上の駅舎にわかれている。近く(2km先)には四天王像が四方を護るユニークな仏塔がある。 - No.15 マルワゴーン 静脈の町の屠禽場
ヤンゴン市南西のマルワゴーン駅は、ヤンゴン環状線とマンダレー方面行きの分岐点にあたり、鉄ちゃんなら興味深々の場所。また、近くの「鶏とアヒルの市場」では、二つの伝統的屠殺処理法が観察できる。 - No.14 カマユッ駅の氷とドリアン
カマユッはヤンゴン中央駅から時計回りで10番目、チミンダインから北へ3番目の駅である。地名はモン語の「カマー」(池、湖)と「ロッ、ヨッ」(宝、宝石、ビルマ語の「ヤドナー」、・・・。 - No.13 ゴルフ場駅発、再生魔法瓶
ヤンゴンの環状線が開通したのはそう古いことではない。長いあいだシュエダゴンに置かれていた兵営(カントンメント)が町の北東のミンガラードンに移ったのを機に北部路線がつながったのは1932年以降のことらしい。 - No.12 丘の上の食人鬼(バルー)像
ヤンゴン環状線と国道 4 号線 (ネピドー・マンダレーに向かうハイウェイ) の交点に、 チャイッ・ カレーの駅がある。 標高わずか10メートル余りだが、環状鉄道で最高点だそうだ。 - No.11 カンベ駅とその周辺
本連載ではこれまで、もっぱらヤンゴン市の西と南を紹介してきたが、今回は鉄道の東側、ヤンキン町とサウス・オカラパ町の境に位置するカンベ駅を紹介しよう。中央駅から数えて5つ目の駅である。 - No.10 ダニンゴーンの野菜市場
ヤンゴン環状鉄道の南西の角に、ダニンゴーン駅がある。北のピー方面との分岐点にあたり、複々線の重要な駅だ。駅舎の前にある1番線は環状内回り。2番線は環状外回り、同じホーム反対側の3番線は北から来る列車用、そして4番線は北のローガー(Hlauga)行きである。ヤンゴンから外回りで一周するつもりなら、この駅の4番線でなく、2番線に入ったことを確認しなくてはならない。 - No.9 ミンガラータウンニュン町の異教建築
「ミンガラータウンニュン」。カタカナでも長いが、単音節の基本語彙で構成されるビルマ語で、5音節はいかにも長い。それもそのはず、最初の3音節(ミン・ガ・ラー)は「火星、吉祥」を意味するサンスクリットの「マンガラ」に由来するのだ。タウンは「山、森」、ニュンは「若葉、若芽」の意。あわせて「新福岡」というような意味だろうか。ここではヤンゴン市役所の略記法にしたがい、MINTと略すことにする。 - No.8 世界(カバー)平和寺(エイ・パヤー)の時空
ヤンゴン東部を南北に走る大通りの名前にもなっているカバーエイ・パヤーは、世界平和寺」という意味である。建立はアジア各国の独立戦争や内戦の記憶が生々しい1952年、仏教の国教化を図るウー・ヌー大統領による。そこには「世界大戦」の終結を祝う気持ちが込められていたのだろう。 - No.7 ビルマ三大王の像
ヤンゴンの下町から北へ向かうピー街道沿いに沿って、国立博物館がある。5ドルの入場料は高い気がするが、前庭に立つ3人の大王のブロンズ像はただで見られる。それぞれ個性的な像だが、その容貌について当時の記録が残っているわけではなく、彫刻家ウ・ハン・タン(U Han Tan(1926-2000))の洞察力の賜物である。 - No.6 竹藪と僧院のバハン町
バハン町は下町に近いにもかかわらず、人口密度が平方キロメートル当り1万人を切り、屋敷町ダゴンに次いで低い。「富裕層の住む地区」とウィキペディアにあるように、ここもまた敷地面積を誇る屋敷町なのだ。バゴー山脈南端の「イラワジ層」丘陵に位置するため、その景観は海岸台地に直行道路を引いたダゴン町のようではなく、起伏に富む。坂が多く、道は左右にうねり、袋小路も珍しくない。緑と高い塀と鉄条網に囲まれた「隠れ屋敷町」とでも言おうか。 - No.5 ダゴン町のお屋敷
保健省の統計(2009年)によれば、ダゴン町の人口密度は1平方キロメートルあたり4575人と、南に隣接した商業地区の10分の1に満たない。ヤンゴン管区45タウンシップのうち28位。市街地にありながら、郊外なみに人口稀薄だ。その理由のひとつは、町の北半分がシュエダゴンパゴダや、ピープルズパーク、旧国会議事堂などで占められて、事実上無人になっていることだが、南半分を占める住宅地もまた、官舎や各国大使館など豪邸が主で、贅沢に敷地をとっている。日本人学校もそうした邸宅のひとつに数えてよいだろう。 - No.4 馬の悲しみ、牝牛の誉れ-シュエダゴン・パゴダ仏伝図より
「人に酔う」という言葉があるが、シュエダゴン・パゴダに行くと、仏塔と仏像の多さに酔い、信者の熱気に圧倒され、隅々まで見るにはよほどの気力と体力が要る。ヤンゴンに長く住んでいても、ゆっくりとあの空間を楽しみ、彫像としんみり対話をする機会はすくない。その理由の一端は、言うも恐れ多いことだが、仏像が俗っぽく稚拙に見えるからだ。仏像の良し悪しで拝む気持ちを変えてはならぬとは、たしか道元禅師の教えだったと思うが、そのような戒めが語りつがれたということ自体、仏像を美術的に品定めする日本人気質を語るものだろう。 - No.3 迦陵頻伽と鵞
ミャンマービールのラベルでお馴染みの鳳凰のような形の船は、王の御座船で、カラウェイ・パウンと呼ばれている。ヤンゴン市内のカンド―ジ湖には同じ形をしたKaraweit Palaceという名のレストランがある(図参照)。 - No.2 三角の町サンチャウン
チーミンダイン(Kyimindain)駅のアーチを東にくぐると、思わず目を疑う。レンガ造りのいかつい駅舎の表玄関にはしてはあまりに狭く、路地やドブに囲まれた裏長屋を、うっそうとした木立が囲み、およそ駅前らしくない。日が暮れれば街灯も暗く、僧院の塀の向こうで鳴く犬の声が不気味だ。植民地時代、このあたりにビルマ人墓地があったと、古い地図には記されている。 - No.1 西の港チーミンダイン
ヤンゴン市をめぐる循環鉄道外回り線は、中央駅を出るとまっすぐ西へ向かい、ダゴン町の南の縁に沿ってゆるやかな右カーブを描く 。道路より一段低い鉄道の両脇には、民家の壁や草木が迫り、眺めはあまりよくない。だが4つ目のアロン・ラーン駅を過ぎるあたりから左窓側に地面が低くなり、バーガヤー道路をまたぐ鉄橋で見晴らしが開けると、やがて汽車はチーミンダイン駅の広い構内に入ってゆく。